教会のカルト化は、主に当該の牧師・神父の信仰的な暴走によりはじまります。
本来、キリスト教信仰は、人間の自己中心的な思考や行動に対して、(『聖書』の言葉を通じて「神」という絶対的な客観者からの語りかけによる)抑制・客観化を働きかけるものですが、そうした健全な信仰を失った牧師・神父においては、信仰の持つ抑制・客観化ということではなく、むしろ、自分の欲望を満足させるための口実として、あるいは正当化のために信仰や『聖書』が利用されている点にその特徴があります。
わたしたち人間は、誰もがそうした自己中心的・利己的な考えを持ちますが、特に、こうした宗教団体の指導的な立場にある人物のこうした性向は、個人的な罪を集団犯罪に肥大化させる点において非常に悪質であり、危険なものであるといえます。
過去の事例でいけば、オウム真理教における一連の犯罪などは、一宗教指導者がその組織を巻き込んで犯した、日本社会を巻き込んだこれ以上はないほどの犯罪であったと言ってもよいでしょう。
しかし、そうした一大事件における宗教的指導者の犯罪もさることながら、わたしたちの身の回りにあって、それと同等かそれ以上に悪質なのが、被害者には泣き寝入りをさせつつ、それでいて告発されないことをいいことに、なお自己の欲望を充足させるために聖職者の皮を被って悪事を行う牧師・神父がいるということです(もちろん、こうしたことはキリスト教に限定されませんが)。
過去にどれほどの信仰的な虐待が行われたかは定かではありませんが、この5年ほどの間において、キリスト教界において、告発があり、その事件が公にされたものがいくつかあります。そのほとんどが一般紙で扱われることもなく、またテレビなどで取り扱われることもありません。その犯罪がよほど悪質であり被害が甚大なものについては、大きく取り扱われることもありますが、多くのメディアではこうした宗教における問題について触れることはありません。
そのため、こうした牧師・神父の犯罪は「特殊な事例」とされて、多くの教会では「うちとは無関係」だという短絡的に片づけられることが多いのです。そのため、今一度、ここで過去に公表されたものについて、実例を紹介すると共に、それが過去のことではなく、この山陰においても現在進行中の問題として提起するものです。
1)日本ホーリネス教団 K牧師性加害事件
http://www.jhc.or.jp/ K牧師性加害事件
この事件は1990年年代に起り、複数の女性がその被害に遭いました。その後、被害者からの告発で裁判になり、K牧師の有罪が確定しましたが、その一年後に、一人の被害者が自死されるという非常に痛ましいものでした。
この事件の特徴は、牧師の個人的性的欲求の満足のために、自身が所属する教会と「星の子どもたち」というK牧師が主宰する宣教組織が悪用された点にあります。しかも牧師は「神の御心」だとして、あるいは女性被害者の信仰を利用して性的関係を強要し、しかも事件発覚後において自身においては「罪は赦された」と公然と発言し、まったく反省していないという点が上げられます。
こうした牧師・神父や教会のカルト化にみる特徴は「伝道」や「宣教」ということが、いわば神の御心だとして、自分たちの行動の正当化の理由付けがなされる点にあります。それは純粋に「伝道」「宣教」という事が叫ばれるその陰で牧師・神父の欲望の充足が付随的に行われるのです。
そして、そうした牧師・神父の性的欲望の充足は、イエス・キリストの福音をのべつたえる「伝道」「宣教」という名目において肯定されるようにしむけ、あるいは自身でそのように思い込むのです。
しかも、たとえそれが牧師・神父において「罪」として認識されたとしても、それは牧師・神父にしてみれば「神に告白すれば赦される」という性質のものです。ここでは「罪の告白」は「以後、決してそのような過ちを二度と犯さない」というような「悔い改め」ではなく、むしろ、「告白さえすれば、いくらでも犯した罪は赦される」という自己(の犯罪)肯定となるのです。
なお、詳細については、上記、日本ホーリネス教団ホームページから資料がダウンロードできますが、これとは別に、自死された被害女性側からの資料として『性暴力被害者の家族として』が入手できます。それについては、以下のリンク(『随想・吉祥寺の森から』)に詳細があります。
http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/52223588.html
しかし、こうした問題の怖ろしさは、むしろこうして公表に至るケースはまれで、多くの場合は、被害者が泣き寝入りで社会的に救済されない点にあります。山陰における牧師・神父・教会のケースはまさにそれで、現在、松江で裁判になっているものについても、全体的な被害者がどれほどになるのかは定かでありません。
2)「小牧者訓練会」 ビュン牧師によるセクハラ事件
http://www.foe414.org/
宗教法人「小牧者訓練会」による被害を受けた女性達の救出と癒しを目的とする会
これも牧師による信徒に対するセクハラ事件ですが、1)と同様に、「小牧者訓練会」という組織が牧師の犯罪を隠蔽し、増長させる仕組みになっていた点で共通します。
これも同様に裁判となって、ビュン牧師に対して準強姦罪の疑いで裁判が行われましたが、裁判では「有罪とするだけの十分な立証がなされていないとして無罪」(クリスチャン新聞2011年6月5日版)という結果になり、加えて、今度は、自分を訴え出た被害者や支援者たちに対して逆に名誉毀損で訴えるという状況に至っています。現在、それがどのようになったのか、詳細は不明ですが、こうした教会におけるセクハラやパワハラ問題の根深さを考えさせられる事件です。
3)聖公会京都教区の元牧師によるセクハラ事件(2009年)
この事件については、いわゆる一般の裁判ではなく、聖公会という教団内法廷において裁判が行われた点に特徴があります。
通常、教会の中で起る事件について、多くの場合、そうしたことが起ることを前提としないため教会・教団の中に法廷を持つことは多くありません。そのため、教会内で起った問題、あるいは教団内で起った問題について、それが教会、あるいは教団の不名誉であると判断される場合、「正しい裁判」よりも、むしろ「穏便な形式的和解」、あるいは当該牧師の人事異動という懲戒を行うことで済ませることがあるのです。
当時のクリスチャン新聞によれば、被害者女性は小学4年生ころから高校3年生になるまでの期間、同牧師から性的被害を受け続け、ことの教団内裁判が2009年に行われ、牧師は「終身停職」が言い渡されました。しかし、その後、被害者女性に対する謝罪などがなされたかはわかりません。
4)仙台ラブリ教会・藤本光悦事件(2011年)
この事件は、1)の「小牧者訓練会」と同様、「弟子化(訓練)」という手法による伝道・宣教に由来する信徒に対するパワハラが問題となっています。
「小牧者訓練会」「弟子化(訓練)」とは、いわば牧師・神父が信徒を自分の意のままに操るための一種のマインドコントロールであり、特にプロテスタント教会においては、具体的な形は違うけれども、牧師・神父の自己実現のために、そうした「弟子化(訓練)」などの手法が用いられ、伝道・宣教という名目において、そうしたセクハラ・パワハラが教会内で正当化される点に共通性がります。
こうした事件以外にも、牧師・神父によるこうした事件は全国で幾つもあり、数え上げればその数の多さに驚くほどです(以下のサイトがそうしたキリスト教会内の事件を詳しく紹介しています)。
http://d.hatena.ne.jp/religious/ 神々の風景
しかし、こうした問題の本質的な恐ろしさは何かと言えば、先にも書いたように、それが表面化しにくいために、今でもなおそうしたことが教会内において繰り返されているという点にあります。また、教団内において人事異動という形によって責任をとることもありますが、むしろ、それは事件の解決ではなく、事件のもみ消しをしているだけであって、こうした点において、当該牧師は誰からも訴えられることなく、新天地において、あるいは元の場所で、なお牧師として教会を運営できるという事において、あたかもその罪が赦されているかのようになっている点にあるのです。